早天祈祷会
今日は教会の早天に参加しました。外は羽織るものが必要なほど肌寒かったですが、早天に参加してからは心はとても暖かくなりました。朝食を食べる前に、スマホを見る前に、自分の時間を持つ前に、まず主の前に出る恵みを堪能しました。
はたから見ると、早天はコンテンツ的には全く魅力的ではありません。魅力的なプログラムがないどころかかなり地味です。先生の話を聞いて賛美を歌って祈るだけです。賛美もフルバンドじゃなくてピアノ一台で聖歌の本を片手に歌うのです。さらに、せっかくの祝日に、わざわざ眠い中、朝早く起きて行くのです。
何をしに早天祈祷会に行くのか?
肉的な自分はそれを嫌がっていることを知っています。きっとこう言うでしょう。「コンテンツおもんないし、もっと惰眠をむさぼりたい!」と。しかし、霊としての存在する僕はこう言います。「コンテンツを楽しむんじゃない。主にお会いしに行くのだ」と。
聖書には「二人、または三人は私の名によって集まっているところに、私もその中にいるのである」という言葉があります。日常生活における、一人で神様に向き合う時間とは異なる恵みがそこにあるのです。主の臨在、つまり主が共におられることが体験できるのです。
いずれも必要
一人で祈る時間を持っている人は、きっと一人でいる時に心の中に主が共にいてくださる体験と集会で主が臨在される体験はまた別のものだと理解されていると思います。どちらも恵みに満ち溢れていますが、どちらかで十分というわけではなく、どちらも体験したいと思わせるものです。
つたないたとえですが、それはディズニーランドに行ったからディズニー・シーには行かなくていいという思いじゃなくて、ランドに行ったからシーにも行きたいと思わせることに似ているかもしれません。僕自身はランドにもシーにも行ったことがないのでわかりませんが。
あるいは、一人で予習、復習して勉強することは大前提として大切ですが、それと同時に学校や塾で誰かに教わる体験がかかせないことにも似ているかもしれません。もし、一人で勉強することなしに、学校だけの授業だけだったらきっと不十分でしょう。
一人で神様に向き合う時間がベースになり、その上に、教会生活や礼拝で信仰生活に厚みや、深さが出てくるのだと思っています。