1158_その一言は神の御心にかなったものなのか?

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信用できるのは自分だけ?

あなたは自分自身を信用していますか?あるいは自分自身に失望していますか?ある人は「信じられるのは自分だけだ!」と自分だけを信じる決心を堅くしているかもしれません。一方、ある人は周りの人も信用できないけど、自分はもっと頼りないと思っているかもしれません。

もしある人が自分を信用していると思っていたとしてもそれは「ある環境下においてのみ」に限定されているかもしれません。もし、今ある環境が崩れたり、前提としているものがなくなると自分が信じられなくことがあるのではないかと思っています。

具体的に言えば、自分はそれなりにいい人間だと思っていたとしても、仮に飢餓に見舞われれた時に自分が善人であることを貫きとおすことができるのか?という疑問です。

そうじゃない人もいる

僕自身は物心ついた時から自分を信用していません。特にイエス様に救われる前は許容される範囲外で自己中心的な生き方をしていたので、自分がとても嫌いでした。魂が救われたから、「こんな僕も変えられる望みがある」という希望を抱き今があるにすぎません。

じゃあ、今は自分を信用しているのか?と聞かれたら、僕は以前にも増して信用していないと答えるでしょう。なぜなら、本当に信用できるのは神様だけだからです。

僕はこれまで何度祈りの中で神様に誓ったことでしょう。しかし、その数ほどに神様を悲しませてしまうことが多かったと思います。

聖霊が必要

自分を信用しない。そして完全なる自己否定から自分には本当に助け主である聖霊が必要だと思うようになります。仕事なり家庭のことなり何かできているように思えたとしても、それは自分が認めている範囲でできているだけです。しかし、そういった日常のことも、神様の目から見たら、全然できていないことが多いのです。

例えば、何気ない一言、態度、返答など神様の愛に溢れていたら出ていたものも自分の力で生きているとどうしても神様の御心から外れた日々になってしまいます。日常のことですらそうであるのなら、教会などにおける神様の働きに関して聖霊の助けが必要だということは言うまでもないと思います。

決して失望に終わらない

僕は自分は信頼していませんが、神様は信頼しています。このお方に信頼すれば決して失望に終わることはありません。

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