士師記を終えて…
通読では晴れて胸クソの士師記の最後の画面を読み終わりルツ記に入りました。ルツ記は心が洗われる非常に爽やかな物語になっています。異邦人でありながらイスラエルの神に従うと決めるルツの信仰、そして、義母ナオミへの従順さ。なんといっても、ボアズの優しさと配慮。
結婚を考えているクリスチャンなら、このような出会いに憧れるものですが、多くのことを教えられます。
ルツ記が爽やかな理由
ルツ記が爽やかだと感じるには二つの理由があると考えています。一つは直前の士師記全体が暗闇に覆われているからです。ルツ記はまさに長いトンネルの先の出口に見えた光のような箇所になっています。まだトンネルは抜け出してはいませんが、光が見え始めているのです。
二つ目は、登場人物が総じて謙遜だからです。言い換えれば「オレガオレガ」のような人物がいないのです。ルツとボアズも従順とへりくだりの限りを尽くしています。何よりも二人は神を畏れ愛する人たちでした。つまり、そのような人たちの人生は周りにも爽やかな印象を与えるのだと思いました。
サムエル記
ルツ記はわずか4章で終わり、そのままサムエル記に入っていきます。サムエル記の前半もルツ記に非常に似ています。当時のイスラエルの民は堕落しきっていました。祭司エリの息子二人は律法を守らず祭司職の仕事に携わっていました。時には神殿に勤務している女性をお持ち帰りすることもあったようです。
その評判はイスラエルの民から苦情となってエリの耳に届きますが、彼はそれに対して厳しくとがめることはしませんでした。これはどういうことでしょうか。ようは「他人には厳しいが我が子には甘い」ということだと思います。これは僕自身も心に強く留めておきたいと思いました。
暗黒の時代であっても
そのような時代にも「主のともしび」は確かに消えていませんでした。それは、エルカナという人物の奥さんであるハンナから「これこそ神の人」というべき本物というべき人が生まれてくるのです。士師記にも確かに指導者が単発で現れることが繰り返されていましたが、どの人物も相対的に人間的な弱さを顕著にもっていました。たとえばサムソンやギデオンなどもです。
しかし、サムエルはそれ以降のイスラエルの黄金時代の礎を築く枠役ならぬ主役のような存在になります。これから続くサムエル記上下巻はサウルが王が表舞台の主役になりますが、サムエルはほとんど影ながら主役のような存在感を出しています。
僕は前後者どちらの人物に属するかと考えた時、自身の働きや生き方から考えるに悲しいかな前者寄りの人物だと思わされました。これからサムエル記を読んで襟を正したいと思います。