1487_復活の主の栄光

十字架こそ

今週は受難週で今週の日曜日にイースターを迎えます。イエス様が人として地上に遣わされてご誕生されたクリスマスは素晴らしいです。しかし、僕はイースターのほうを重んじています。なぜなら、イエス様の十字架こそが歴史始まって以来、人類史上、最も偉大な御わざだからです。十字架こそがイエス様が地上に来てくださった目的です。

神の計画にもしはありません。しかし、もし人としてのイエス様が地上に来られて天の父を無視するような生き方をしたのなら、人類の罪の赦しはありえなかったのです。だから僕はイエス様がなしてくださった大いなる御わざを今日も褒め称えます。

十字架はすべて

十字架は僕とイエス様の関係のすべてです。だから十字架抜きに僕の信仰はありません。また、十字架はいつも僕を正しい道に導いてくれます。もし、十字架がなければ僕は「罪が赦される」という人生で最も素晴らしい体験をすることはありませんでした。また自分が聖霊によって聖められるということも経験することもありませんでした。

ずっと、自分の罪に苦しんで好き勝手生きるしかなかったのです。しかし、今は生きる目的が与えられています。それは、仕事のためでも家族のためでもありません。主のために生きるという大きな目的を与えてくださったのです。人生に対して悲観的で無力感しか抱いていなかった僕にとってこれ以上嬉しいことはありませんでした。

主は確かに今も生きておられる

そして主は確かに今も生きておられ、共にいてくださいます。それは「そう書いてあるから、きっとそうなんだろう」とか「そんな気がする」というようなものでもありません。また誤解を恐れずにかけば「聖書に書いてあるからそうなんだろう」というものでもありません。

確かに栄光の復活の主がよみがえって共にていくださるというのを確信するほどに体験することができるものです。体験を強調しすぎるとペンテコステ派的で聖書信仰から逸脱して感覚主義に陥るという指摘を受けそうですが、僕は体験は非常に重要だと思います。

生きているということ

それは、主は今も生きておられから当然だと思うのです。今も生きておられる方との交わりが何も感じない何も思わない無味乾燥のものではあってはいけないと思います。主は確かに生きておられるからこそ、その生きている霊的な鼓動や力強さや栄光に与ることができるのです。

この受難週、主の痛み、苦しみ、悲しみに心を留めると共にそれ以上によみがえりの主の栄光を褒め称える時としたいと思います。

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