想像を絶するほどに寛容で忍耐強いお方
昨日はキリスト教信仰における「それをやっちゃぁおしまいよ」ということについて書きました。しかし、書いておかないといけないことがあります。それは驚くべきことにやってしまってもおしまいにならない場合もあります。これは神様の恵みと憐れみによってなされることです。それは神様は愛に満ちたお方であり、想像を絶するほどに寛容で忍耐強いお方だからです。そして、神様は人が変わるのを忍耐強く待たれるがゆえに、やってしまってもおしまいにされないことがあるのです。
これは決して神様の弱みに付け込んで「じゃあ、思う存分やってしまおうではないか?」とあおるために書いているのではありません。自分自身への自戒として書いています。
だいたい何かをしでかしている
やってしまってもおわらなかった人は誰でしょうか?おそらく、聖書に出てくる多くの人物はだいたい何かをしでかしています。信仰の父と呼ばれているアブラハムもいくつかの「しでかし」を犯しています。サラを妹と偽ることに2回、神の約束が待てずにハガルによって子を得ようとしたことなどがあります。これは聖書に記載されているものだけなのでほかにも多くあるでしょう。
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その中で、しでかし続けてもなお神様の忍耐の対象となっていた人物にサムソンがいます。彼は女性の魅力に弱く、死体に触れたりとなかなかのしでかし人物でした。しかし、驚くべきことに神様はすぐに彼から離れることはなかったのです。神様が彼から離れたのは一線を越えた、力の秘密をデリラに告白し長髪を失った時でした。
人間側の一線
この一線は非常に重要です。神の忍耐は人間には想像しきれませんが、一線は確かに存在するのです。モーセを見てみましょう。彼は40歳の時に大失敗をして荒野に逃れます。しかし、主による召命によって再び使命に生きるようになります。出エジプト前後の彼の働きは神の栄光そのものでした。しかし、彼にも一線がありました。それは神の命令に背いて岩を叩いてしまったことです。この一点ゆえにモーセはカナンの地に入れなくなったのです。
僕たち人間は愚かにも神の忍耐と憐れみに甘えすぎています。僕自身はそうです。しかし、覚えておかないといけないことがあります。それは誰にでも一線があるということです。その一線の手前で止まるのか?いや、もっと遠くで主のところに立ち返るのか?いや、一線を越えてしまうのか?
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