キリストに従うとは?
「キリストに従う」という言葉を自分の生活に落とし込むのは容易なことではないと考えています。なぜなら、キリストに従うことは肉に反することだからです。普通に何の意識もせずに生きていれば自然と肉に従って歩んでいるものです。その中で、キリストに従うとは一体どういうことなのか、想像もつかないのです。
しかし、聖書はヒントを与えてくれています。それはこの御言です。
ローマ人への手紙 8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
つまり、たとえキリストに従うことがどういうことかわからなくても、もし御霊に従って生きれば御霊が御言を通して教えてくれると信じています。
折れたら損する
先日はこのようなことを思いました。それは、仕事、家庭、教会などで意見の相違があった時、人間にとって「折れる」ことは容易ではないということです。これは人の原則でしょう。世界を見渡せばみんなが意地を張って折れないがゆえに問題が起こり続けていることが多いです。
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普通、肉はこう考えます。「折れたら損する。折れたら負けだ。折れたら馬鹿をみる。だから、折れない。」これは本能がそのように反応しているのであり、問題ではないと思います。しかし、聖書の原則は「折れる」というところにあるのです。ここに肉は最大限の抵抗をします。なぜなら、折れることは痛みを伴うからです。
キリストも折れた
キリストに従うに話を戻します。表現は正確ではないかもしれませんが、キリストによる人類の救済は「神が折れた」から実現したのです。「一方的に人間が罪を犯したため、その償いは人間がしたらいい」これは肉の自然な反応です。
しかし、神はご自身のひとり子を犠牲にしてまでも人類を救う決断をしてくださったのです。そして、キリストの十字架上での姿はまさに「損、負け、馬鹿をみる」というようは有様でした。キリストはゲッセマネの祈りで御心ならば、この杯を回避したいと祈ったのです。しかし、神の御心は十字架でした。キリストは折れたのです。
神の方法
しかし、この人知では到底はかり知ることのできない原則こそが、神の方法だったのです。つまり、キリストに従うことに含まれる一つの実際的な対応は「折れる」ということです。しかし、これは御言と祈りと聖霊の助けによって行われるものです。
たとえば、法的措置が必要な場合など、無理して泣き寝入りしろと言っているわけではありません。日常生活において、祈る中で主が「あなたが折れない」とおっしゃったならば、素直にしたがっていく、それこそがキリストに従うことだと思ったからです。
自分のことを書けば、夫婦生活などは「折れる」ことの訓練場なんじゃないかと思っています。
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