0045_野のゆりのように生きる

「人の行く裏に道あり花の山」という言葉がすごく好きです。昨年は奈良県の吉野山に桜を見に行ったのですが、あそこの山は、とても一日だけでは見て回れないほどの山桜が咲き誇っています。

幼い頃からの集団からふらふら外れる癖が抜けないので、その時も、自然と人が行く道から外れて、知る人ぞ知る的な景色を見つけたことがあります。そんな場所を見つけたり、花を見つけた時は、なんともいない秘密の花園感を堪能することができます。

今年は自粛のため、例年通り桜を愛でることができないのは非常に残念ですが、日常の中にも「人の行く裏に道あり花の山」があって、ちょっとした小道にタンポポや名前のわからない花が咲き誇っています。そんな姿にも心が温かくなります。

世界が混乱の中にあっても、創造主が自然を支配しておられて、季節がめぐり、毎年きちんと桜は咲きます。神の摂理です。冬をぐっとこらえて、つぼみが大きくなり、やがて、花が咲き、そして、散り、新緑が息吹きます。

イエス・キリストは野のユリの話をされました。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
マタイ6:27-31(新改訳)

イエス様は救い主ですが、「癒し系」だなぁとつくづく思います。毎日が心配であっても、イエス様はこのようおっしゃってくださっていますから、彼により頼み、神が与えれくださる平安の中で安んじます。さらに、このように続きます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6:33-34(新改訳)

明日のことを思い煩わずに、平安でいられるように祈ります。