自覚することのない神の補助

現在、隔日でバベルの塔内にあるジムに通っています。ジムに通い始めた時、一度だけ体験でコーチとトレーニングをしました。

そのコーチは私に、効果的なトレーニング方法、適切なトレーニング方法、トレーニング後のストレッチの方法まで、丁寧に教えてくれました。

ひとつの項目をトレーニングする際は、12回を1セットとして、それを4セットを繰り返します。ダンベルを持ち上げる際も、最初の2セットは軽く持ち上げられるのですが、

3セット、4セットと回数を重ねると、自分だけの力だけでは持ち上げられなくなってきます。もし、持ち上げられない場合は、重量を落とすなり、回数を減らすなり、いろいろ対処方法はあると思うのですが、

コーチはあくまでも、当初定めた重量、回数を達成できるように、補助を入れてくれます。

そのようにしてもらうことで、目標を達成できたこと、また、妥協しなかったことは、私にとって大きな喜びであり、それが、次のトレーニングにつながると思うようになりました。

しかし、専属コーチをつけてのトレーニングは、この一回きりで、それ以降は一人で教えてもらったとおりにトレーニングしています。

そして、私は一人でトレーニングして始めて、自分一人だけでは、以前、設定した重量、回数は、達成できないことに気づきました。

ある項目をトレーニングする際、4セット目の7、8回あたりで、動作を一時的に止めて、筋肉を休ませなければ、継続できませんでした。

コーチがいてくれたからこそ、自分の筋力にあった限界を設定でき、補助ありでも、その限界を超える体験をすることができたことに気づきました。そして、その限界を超え続ける体験を何度か重ねることによって、やがて、その限界が当たり前になり、さらに、新たな限界を設定し、成長し続けることができる。

もちろん、一人でのトレーニングでも、上記のようなサイクルを回すことは可能だと思いますが、一人よりも、コーチと共にトレーニングするほうが、圧倒的に早く目標を達成できると思いました。

私が自分が想像する以上に、実は相当量のコーチの補助を受けていたこと、また、その補助があってこそ、自分が有する以上の力を発揮できたように、実はキリスト者も、知らない間に、相当量のキリストの補助を得ているのではないかと思いました。

それを補助と知らずに、自分の力だけで持ち上げられていると勘違いしている可能性が、少なからずあるのではないかと思った。

イェスキリストの恵みと哀れみにより、生活ができ、仕事ができ、人間関係が守られている。
もちろん、キリスト者は、何かをする時、特に、自分の力では対処しきれない問題に面した時、自分の容量を超えるような出来事に直面した時、イェスキリストに祈り、助けてもらうことができることを知っています。

そして、自分が祈り求めたこと、そして、それに対するの神の応答に対して、感謝することは容易だと思います。

しかし、全知で、憐れみ深い神は、私たちの欠点、欠乏、不足をご存知である以上、私たちが祈り求めていないことに対しても、その欠点、欠乏、不足を補うための、補助を入れてくださっているお方なのではないかと思った。

私たちの意識、意思にかかわらず、私たちの欠乏や欠点に入っている神の補助。そして、その補助によって、支えられ、限界を超えることができ、成長することができている。

自分の意識にのぼっていない神の補助、自分の意思によって求めていないのに得られる神の補助、それに対して感謝し出すならば、ほんとうに感謝は尽きない。

カナンの地は今日も輝いています。

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